昭和44年11月23日 朝の御理解
御理解第四十五節
「世に三方様を踏むな・・・。」
身に徳がつくほどかがんで通れと、だいたい身に徳がつい、本当についたら、あー、自ずと頭が下がってくるんじゃない、ね、それは、穀物、( ? )稲穂などが、実ってくれば実ってくるほど、自然とこうたい下がっていくように、人間も、本当の意味での徳が身に備わって来るというか、身についてきたら、自然と頭が下がるのではなかろうか、ところが、教祖はここん所を身に徳がつくほど、かがんでとおれとこう仰る、これは、私どういうことだろうかと思うんですけれども、例えば、金が身に付いてくる、物が身についてくる、例えばそういうおかげを頂くと言うこと、だから、これもやはり徳だと思うんですね、物の徳とか、金の徳とか、やはり、お金をたくさん持っておる人は、やはり、金の徳に恵まれておるんですよね、もうそれこそ、風邪一つ引いた事のないという健康そのものの人は、いわゆる、健康と言う徳を身につけておるんですよね、ね、衣類ぬら、衣類などにはもう全然不自由しない人がある、やはり、その衣の徳とでももうしましょうかね、食べ物に不自由しない人は、やはり食べ物の徳を身につけてとる、ね、けれども、それを、ね、う~ん、御神徳ということ。信心をして受ける徳というか、これは大変ここんところの徳の解釈というものが、この45節では難しい、徳が身についてくれば、言う中身が出来てくればくるほど自ずと頭が下がらなければならないのに、確かに、その、物の徳とか、金の徳とかと、ただ今申しましたような、徳がありゃこそ、金がたまるんですからね、それはどういう手段をもって儲かるというてもです、やはり金が身についておることは事実なんです、ね、そうすると、確かに人間はとここで仰っておられますように、いわゆる、頭を下げる事を忘れてくる、ね、謙虚というものがなくなって来る、そこで、これはやはり、ここに、いわば、注意がしてありますように、身に徳がつくほど、かがんで通れという一つの教訓ですがね、が身について、その、それに、たいてい心掛けとかんと出来ないということ、ね、金が段々身についてきた、人の持たんような物でも持つようになれてきた、ね、それを、例えば、いうならば、あれは財産が出来たんだぞ、人の持たんような物でも持てれるようになったんぞ、と見せびらかすような、と言うことは、もうすでにこれは慢心だと、だから、その、そういうものが身に付いてくればくるほど、私共はひっそりとした信心を本気でさせてもろうて、ね、いわゆる、謙虚にならにゃんならない、いわゆる、( ? )は、その徳がつけば、自ずと謙虚になって来るだろうと思うけれどもです、その、なってこないという事実があることですね、やはり。やはり威張る、ね。
だから、どうでも一つおかげを頂いて、そういう人間の幸せの条件である所の、物やら、金やらに恵まなければならないけれども、そういうものが身についても、一つ謙虚でおれれる、何かの方法というか、手段というかね、をやはり身につけておかなければならん、どんなに金がでけても、物がでけても、ね、そこで、私は思うんですけれどね、いわゆる、慢心が出たらおかげを取り外すと仰る、取り外さんで済むおかげを頂く為にです、なんかそこに、え~、自分の心の状態をいつもこう見極めておれれるようなもの、あた!これは慢心が出て来たぞと、俺は少し威張りよるぞと、言うようなことにすぐ気が付かせて頂いて謙虚になれれる、なにやらかのです、一つの方法、手段を持ってでも、そういう方法を身につけとなければならない。どこをどういうふうに、その、その、慢心、慢心でないという一つのバロメーターといったようなものがです、自分の心の中にかけられておると、慎む事を忘れるような事はなかろうと思うですね。
そこで、やはり、おかげを頂きましてね、そういう人間の幸せの条件である所のおかげを頂かせて頂かなければならんと同時にです、ね、確かに、穀物が、実が実るほど、頭が下がっていくような徳です、いわゆる、私はそれを御神徳だと、ね、御神徳を受ける、いわゆる、神様からの御信用を受けられる徳なんです、ね、神様にご信用を受ける、いわば、人間を作らなければならないと、御神徳を受けれれば自ずと頭が下がるとと思うんですね。いわゆる、いつも謙虚でおれる、天で頭を打つ事はなくなるだろうと、ただおかげを頂いて、金がたまった、もう物に不自由しないのという、健康であるという、その、徳がありゃこそ健康でもありゃ金もたまるんですけれども、これは、だから、危ない。そこで、ここに、一番最初に、世に三宝様踏むなと、三宝様を踏むと目がつぶれるというが、というところです、ね。
三宝様を踏みつけるようなことをしないという一つの心情ですね、を自分の生活の生き方の中にです、これを頂いとかなければならん、三宝様を踏みつけるようなことはしないと。
ここでは三宝様と言うことを、う~ん、穀物の糸、注釈がいれてありますね、けれども、ここでいう、私がいう三宝様を踏むなと言うのは、ね、そういうことではない、私は、今日、切にそこんところを思うんですけれども、神様を信ずるとこう言う、なるほど神を信ずれば、神様もまた信じて下さる、神は信ずる者を信ずると仰せられるから、けれども、神を信ずると言うことは、神様をどこをどう信ずるかと、いや神様は絶対に実在してござると、言うことだけを信じたからというて大した役に立たないと、神を信ずるとは何をどこを信ずるかと、ね。
私を軽う信ずると言うことは、例えば教祖様が言うてくださる事、神様が、教祖様が教えておって下さること、これを疑わず、信ずるという事だと思うんです、神を信ずると言うことは。ね、神様を信じておる言うても、ただ神の実在を信ずるという、ただ神様ちゃござるもんだと分かったとか、それを信じておるというだけではおかげは受けられん、徳は受けられん、だから、神を信ずると言うことは、いわゆる、教祖様を信ずるということ、教祖様が言うてござると言うことを信ずるということ、ね、教えを疑わずにしんると言う事が神を信ずるということになると同時にです、それを生活の上に信じてそれを頂いて行くと言う事が神を信ずるという事だと、私は今日思うんですね。
神を信ずる、神を信ずる、それは神のどこを信ずるかと、ね、天地の親神様が教祖金光大神様を通して人間が幸せになっていく道を教えられた、そこを説かれた、だから、説かれたその教えそのものを信ずる以外にはない、それを信じて( ? )することが、神様を信じて、神様を頂いていくほかならないのである。ね。
ですから、それをもう少し言うと、親先生の言われることを信ずると言う以外にない、親先生が言われることを信心て疑わない、それがそのまま神を信ずると言う事になる、神様は信ずる、神の実在を信ずると言うても、ね、教祖金光大神が教えてくださることを右左にしたり、ね、親先生の言われることを、先生は言われるけれどもというたら、もう神を信ずると言う事にはならないと私は今日そこんところを決め付けて頂いとるような気がする。
そこで、世に三宝様を踏むなと、三宝様を踏むと目が潰れるとこう、ね、私共、子供の時に、ばばがお食事の時にいっておりました、ね、こうやっぱ子供ですからこぼしますと、それを一つ自分も拾うて食べてくれると同時にそれを拾うて、また食べさしてくれました、ね、御飯つぶやらを踏みつけたりするとね、その、足が( ? )ていいよりました、ね、まあ、いうなら目が潰れるというような意味と同じなんです、ね、この足が罰かぶる、穀物、例えば体温の踏みつけることをすると( ? )、そして、畳の上におちておる、今、例えば、その、ね、今の若い方達はもう( ? )でそういものはみんな捨ててしまうというような考え方をしておる人が多いですけれども、私共が子供の時にやはりそういうふうに教育を受けてきた、だから、そのこと事態がですね、私はどうということじゃないけれども、その精神なんです、神様が人の命のために下さった食べ物、その食べ物を押し頂く心と、踏みつけるという心とは大変な差がでてくるんです、ね、そこで、私共人間の命のために与えて下さる、これがなからにゃ生きてはいかれないというほどしの大切なもの、その例えば食べ物を押し頂く生き方です、ね、食べ物そのものではなくて、いわゆる、私共の心をいよいよ健全にして下さるための、いわゆる、御事柄なんです。ね、事柄のすべてがです、ね、押し頂いていただく、その御事柄その物がです、私共の心の糧にあるものですから、ね、腹の立つようなことをです、ただ腹の立てっぱなしでは、それはその事柄を踏みつけた物の同然であります。ね、腹の立つようなことをです、よくよくその内容を吟味してみるとです、ね、私が頂かなければならないこと、いわゆる、本当を言うたら、御事柄として押し頂いていただかなければならないこと、ここんところがね、ここのところが私は信じこまれておかなければいけないと、ね、自分の生活の上にです、例えば食べ物がなんかをお粗末にする、平気で踏みつけるようなことをする、そういう生活が、もし平気でできるようになっておる時にはもうすでに、ね、頭を下げる事を忘れておる時と悟らせてもらわにゃいけん、。
御事柄をです、ね、粗末にするようになっておる自分というものに気が付いたら、もう頭を下げる事を忘れておると言う事になるのです。だから、ここのところをですね、私共はもうこれは特にあれだけ一生懸命私が申しておりますから、皆さんがこのところをですね、自分の、いわゆる、身に徳をつくほどかがんで通れと仰るが、おかげを頂けば頂くほどです、そのおかげを私は今日は徳という風に申しましたね、お金の徳、物の徳、いろんな物に不自由しない、健康である、健康の徳を受けておる、そうすと、健康に任せて悪い事をする、ね、健康に任せて、いうなら、喧嘩をする、腕力を振る、お金があると、お金に任せて、ね、贅沢さんまいにふける、ね、実が身についてしようんないようにあると、その物を軽う見る、お粗末にする、ね、そして、限りなく贅沢な心が起こって来る、そういうことでは、それこそ、天で頭を打つのが恐いと仰る、天で頭を打つような結果が必ずいつかはくるのである、そして、それではです、物やら、金やらと、健康やら、それだけでは人間は幸せにはなれないと、ね、やはり、それに人徳と神徳が伴わなければならない。ね、人からも、はぁーあっちゃお金はもっちょるけれども、頭が、自が低うしとる、ね、なかなか謙虚だと、そういう人の上に人徳がつくのです。ね、あの氏子だけは間違いがないと、間違いのない人物にならせて頂く事によって神徳が、いわゆる、神様のご信用がつくです、その、人徳、神徳がです、物やら金やら、または健康やらの徳に伴(ともの)うた時に(両手を合わせて拍手をされる)人間の幸福があるのだということ、ね。
神徳、人徳が身に付いてくるとです、これも自ずと頭が下がってくるだろうけれども、実は実ってくる、ね、けれども私共がです、例え、繰り返し申しておりますように、物やら金やら健康やら、ね、人間は、いわば、先生といわれたり、身代がでけてたりするとです、頭を下げることを忘れる、なぜ忘れるかと、ね、頭を下げる事をわすれる、だから、ここんところを忘れんようにせよと、今日いいよるのである。だから、それを忘れんようにすることの為に、一つ、三方様を踏むような事があってはならない、これは、教祖の神様がね、三方様を踏むようになったら、絶対( ? )目がつぶれたりするんだと、言う事を私は信じる事だと思うんです。恐ろしいことだと、金はでけたが、自分の心の中にこういう、例えば、慢心が育んでいく、これは恐ろしい事だと気がつかにゃいかん、今に足が( ? )つくようになる、今に目がつぶれるようになる、ね、足が( ? )つく前に、目がつぶれる前に、私共はそこを早く改まらせて頂いて、おかげを頂いていかなければならない、そこのところを分かる、気付かせて頂く一つの、まあ、手立てとしてですね、三方様を踏むような事はあってはならんと、どんな儲けだしても、ね、食べ物でもお粗末ご無礼なことがあるようなことになってはならないと、三方様を踏むような事に、はしてはならないと、一つそこん所を信じなければならない。三方様を踏むなと教祖様が仰るから三方様を踏まないと言うこと、三方様を大切に押し頂いて、頂くような心になれと仰るから三方様を押し頂いて、頂く心、その押し頂く心が私共の心から段々薄うなっていっておるとするとです、私は今に目がつぶれる、今に足が頭に引っ付くようなことになんだと信じなければならない。ね、だから、ここでは、なら穀物と、穀物と言う物が人間の命の為に与えられておるようにです、御事柄が私共の心の状態をいよいよ健全にしてくださる事のための穀物と同じものだと、ね、いわゆる、成り行きを尊ばせてもらい、成り行きを大切にさせて頂いて、御事柄そのものを自分の心の糧として頂いていくという生き方、腹もたとうけれども、腹の立つようなこと、情けなくもあろうけれども、その情けないと思うような事柄そのものを大切にさせて頂いて、いよいよ、自分の反省の主としていくということにです、ならなければならんと思うんです。
だから、ね、そこんところは私共の信心を進めていく、一つのそれをね、一つの定規とも思うて、ね、自分の心の状態が、おかげをいよいよ頂いて行けれる状態にあるか、今にこのような状態であったら目がつぶれるようなことになる状態にあるかをいつも確かめとかなければならん、それは、今私が直面しておるその問題をどのような見方をしておるか、ね、それを、御事柄として頂いておるかいないかということによってです、ね、定めて行くと、定められていくという生き方を一つ身につけなければいけん。
私は、今日、ここんところをちょっと不思議に感じてから、今日は聞いて頂いたんですけど、身に徳がつくほどかがんで通れと、とかく出る釘は打たれると、身に徳がつくほどかがんで通れと仰る、身に徳がつくならかがんで通ると、もう自ずとかがまなければおられないのが徳だと私は思うんです、実を言うたら、けれども、教祖の徳の分析を致しましたね、今日は。だから、確かに、神徳、人徳が身に備わってくれば、これは、自ずと頭が下がってこうけれども、神徳でもなかなければ人徳でもない、いわゆる、物の徳とか、金の徳とか、健康の徳とかといったような、ね、そのやはり徳だと、いわゆる、儲け出すということはです、やはりその人の徳があるから儲け出すのです、徳は徳です、けれども、それは、ね、よっぽどの心の中に掛けどおしに掛けておかんとです、ね、人に頭を下げること、いわゆる、人というだけの、ね、すべての上に、いわゆる、頭を下げることを忘れる。( ? )身に徳がつくほどと、いうここにかがんで通れと仰る、一つわざわざでもかがんで通らせて頂けれる、一つの生き方をね、身につけておかなければならない、そのために、一つ三方様を、ね、自分が踏むような事になってきたら、ね、自分がそのことが平気で三方様を踏むような事をしておる自分にもし気付いたら、これは恐ろしいと、一つ信じなければいけません、三方様を踏むと目がつぶれると言うがと、これは例えでしょう、ね、ですから、私共が心の、心に頂くところの三方様、三方様といいや三つの宝と書いてあるから、ね、人間の一番の宝、( ? )宝に等しいものをです、踏みづけ、踏み付けたりするような、ね、向こうに押しやるような事をした、それに不平不足を言うような事であったら、これはもう踏み付けたのも同じなんです。
だから、その心の状態がです、ね、薄うなっていっておるとするならば、これはもう、いよいよ危険信号だと思うて、ね、改めて自分の心の上に三宝様を押し頂く生き方を一つ身につけていこう、そうしていく内にはです、いよいよ、神徳もつい来る、人徳もついてくるだろう、ね、そこからは、骨が折れるに地を低うしておれれる、神様の前に、本当にあれもこれも一切がおかげと、神様の御働きの中にあらなければ私共が生きていかれないという事実をです、ね、私共の心の中に感じ出したら、とてもとても、ね、頭を下げどおしに下げておらなければおられないようなおかげを受けられると思うんです。
今、お金に不自由をしてない人、健康に自信のある人、ね、物に不自由をしないでおかげを頂いておる人は、もうやはり、そのままが徳である、ね、だから、その、それが頂けておるからというて、それを乱費する、それを無茶につかう、そのために頭を下げることをわすれるような、私は傲慢ご無礼な態度といったような物がです、平気で出てくるようになった時には、もう、もう、そこにね、目のつぶれる寸前になるとか、ね、汗がひたい口につくようなことになる、いうなら、罰かぶるというですがね、ればならない、いわゆる、前提だと思うてです、ここんところを厳しく反省していかなければいけない。
今日は身に徳がつくほど、ここんところを一つも分からなかったけれども、やはり、金とか、物とかと言うものが身に付くということは、やはり得だということと、ね、そういうものが足ろわなければ人間の幸福と言う事はいえない、やはり、幸福の条件ではある、だから、それをいよいよ確固たるものにしていく為に三宝様を踏むような事があってはならない、それをいつも自分の心のバロメーターとして信心、いわゆる、生活を進めていかなければいけないと思うんですね。
どうぞ。
末永静行
2005年6月17日